★みちのく旅烏

 清志郎さんの4回目の命日にあたるその日、僕は夜が明けて間もない世田谷のR246沿いにいた。晩春の朝陽に侵された空気が心地よい冷気を孕んでいた。ベーシストNAGIを含む僕等の一行はGRAVITY FREEのワンボックスに乗り込み、一路東北道を北へと走り始めた。目的地は宮城県石巻である。GWの大渋滞にもめげず、安全運転でハンドルを握ってくれたdjowさんには感謝の気持ちで一杯であった。約12時間の道程を経て、石巻のボランティアベースに到着した頃には、すっかり夜の帳が降りていた。

「ようこそ!」

出迎えてくれたのは今回大変お世話になった”古民家再生IBUKIプロジェクト”の大工さん、BUBBさんであった。そのプロジェクトは、牡鹿半島の大原地区で津波に流されなかった貴重な古民家を再生し、新たな息吹を与えるべく活動している団体である。

「お世話になります!」

挨拶と食事を終えた一行は、宿舎がある大原へと車を走らせた。石巻市内から牡鹿半島へ橋を渡ると、辺りの闇が一層濃くなる。道路が至る場所で歪み、地面が沈んでいるのが分かる。大変な被害を被った地域である事を、嫌でも知らされる光景である。僕は瞠目せざるを得なかったが、それでもやはり(この2年間で人々が増え、建物が増えた)と皆が口を揃える。しかし闇夜の深さは際立っていた。墨汁を落とした様な夜道を車のヘッドライトが縫う様に走る。すると道路脇に鹿の親子がいるのが見えた。"牡鹿半島"の名前の云われである事は言うをまたないが、ここには約5000頭余の鹿が棲んでいるという。東北地方はかつてアイヌの土地であった。中世を経て遂行された征夷は、彼の地"日高見"を我がものにせんとした大和の軍事事業であった。伊達政宗もそれを知らなかった訳ではあるまいが、この牡鹿半島は伊達藩の鹿狩りの猟場としても名高い。街灯の乏しい暗闇の道を抜け大原に着くと、頭上にはかつて見た事の無いほどの満天の星々が輝いていた。



さて、ここ牡鹿半島に渡波(わたのは)という地域があるが、そこに鎮座するひとつの古社がある。名を伊去波夜和氣命神社、通称を明神社という。海岸から然程離れていない小高い丘に建っているその神社で、震災時200人を上回る人が津波を逃れたという。しかしながら助かった人ばかりではなかった訳で、宮司さんの意向により境内に被災者の祖霊社を建て、今年のお祭りでその建設記念式を行った。そこでGRAVITY FREEが社に絵を描き、僕らが演奏をした。震災時は二カ所から合流した津波が、この神社を中心に渦を巻いていたと言う。殆どの家屋を流した津波だったが、それでもこの場所は人々の命を救った。聞く話によるとこの神社は、いざという時の避難所として古代から伝えられてきた場所であると言う。古い神社などの聖域はやはり、その様に意味を持つ場所であるのだと分かる。祭当日は古い神輿までお出ましして大盛況であった。何より人々の活力が半端ではない。祭は直会をいただき幕を閉じた。その後石巻市内に移りコーヒーショップ"ROOTS"にて夜の祭が始まった。ここでもライブをやらせて頂き、グラビティーフリーが絵を描いた。人々は混ざり合い、石巻の夜は深く深くどこまでも更けていくのであった。



この旅は僕に、津波が流したものの計り知れなさの一端を垣間見せてくれた。それはあまりにも大きい力である。渡波沖は海底が露出するまでに潮が引いた後、高さ35メートルの津波が押し寄せた。それでも神社は一握りの人々を救い、そこに生き残った人は力強く生活していた。学ばされる事ばかりであった。帰り際、石ノ森章太郎ミュージアムに多くの来客が見られた。ここ石巻は、日本中の多くの人が訪れるべき場所であり、自分もまた訪れたい場所である。とにかく心底そう思った訳だが、この後に続く福島県富岡町への旅によってその思いはより強くなるのであった...。


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