★文月初日

 梅雨の真っ直中とはいえ、武蔵野のお天道は上機嫌である。夏がすぐ間近ににじり寄りつつあるのをひしひしと感じる今日この頃。雨も時々降ってくれるおかげで、ゴーヤもすくすく成長している。

(この調子では夏のツアー中に電線を伝って他家まで伸びてゆくかもな...)

そんな心配を今からしているくらいである。自然の力には毎度頭が下がる。ネットの片隅に蜘蛛が巣を張って獲物が来るのを待っている。

(たくましい奴...)

こいつも生きているし、おれもなんとか生きている。ただそれだけでもある。

(今更ではあるが...)

今更ではあるが、やはり原子力発電というモンから早く脱したいものである。手前のケツは手前で拭かなくてはならない。国民の殆どの人間が願って止まない、それは切なる思いでもあるのかも知れない。意識の差は勿論あれど、今やたれもが切望しているのが所謂"脱原発"であると思う。しかしながらこの世はそうは動かない。そう動かせない働きが止まない。

「国民の関心を早く! 逸早く原発から遠ざけなければならぬ!」

「左様。さもなくば我らの首が飛ぶというものだ。」

「うむ。それだけは避けなければならぬ...。」

何処からともなく...唸る様な悪鬼どもの会話が聞こえてきそうな気配を漂わせる昨今の世情。やつらは絶対に床に座して会話などしないし、ゴーヤの苗を植えることもしない。勿論節電などはしない。空調がききまくったバビロンタワーの一室でせせら笑っているのが関の山である。

(さて、ひとりの人間としてやれる事は何ぞあるかえ...?)

と、そう考えざるを得ないのが人としての道理ではあるが、なかなかに複雑だし、決して一様ではない。闘争もあれば和解もあるし、裏切りもあれば融和もあるだろうし。無情の中に一分の人情もあると言う。なにをとるかは人それぞれ、どう感じるかはあなた次第といった具合である。民主主義のカラクリからすれば、デモクラシーも立派な意思表示である。選挙が"選択"の意思であるならば、デモは"反対"の意思を示す重要な役割を持つ。一方は法で義務とされ、もう一方は権力の監視の目や弾圧の手に曝される。

(さもアンバランスな代物よ...)

と、遠吠えしている訳にもゆかない。

(はてさて、一人間として、一音楽家として、おれになにができるのか...?)

改めて心底そう思わされたのは、先日出演させて頂いた橋の下アジア音楽祭にてであった。快晴とまではゆかない空模様でも、河川敷に降り注ぐ太陽の光を一身に受けたソーラー発電が電気をつくっていた。なんとも素晴らしい電力である。敷き連ねたソーラーが日光を得て産む電力は、ギターアンプを通して音にも如実にすさまじい力強さをもたらした。

(何故、こんなに素晴らしい発電方法が普及しないのか...?)

タートルアイランドという存在が打ち鳴らす音が、空気が、人が、その日の豊田大橋の下には満ち満ちていた。自由と創造が産んだ真の祭が現出した数日間であり、とてもたくさんの思いある人が創り上げた壮大な音楽祭であった。電力は太陽光だけである。自由な電気と人を音楽が繋げていた。それは原始的であり未来的である。

(ありがとうございました!!)

もっと自由に電力を選べなくてはならない筈である。選べた上で原子力発電が産んだ超高価な電気を買う人なんて皆無だろう。50基以上も造らせてしまったこの現状は、ある意味では民衆の怠慢であると言えるのかも知れない。しかしそう言ってしまっては情けが無いってもんでもある。

(まず送電線を解放した上で、発電の独占をやめるべきではないか?)

そうすればゴーヤが電線を伝って伸びてもたれも文句は言わない。言いたい事が山とある三十路過ぎの男のボヤキか、はたまた一民衆の一途な叫びか、若しくはその両方かは相知れないが、最後まで読んでくれた方に感謝して此処いらで擱筆しておきたい。空が白んでカラスが鳴いている。部屋にはまだ涼し気な夜風が吹き込んでいる。


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