★デンワガナラン

 昨日の満月は美しかった。井の頭の夜空には一筋の雲も無く、悠々と浮かぶお月さんの姿は、いつもより幾分膨らんでいる様に見えた。思わず月見酒をきめ込んだのも昨夜の出来事であった。今宵も井の頭の夜は静けさに満たされている。理由は地理的なものであろう。大きく公園が横たわっているので、車の通行量が至って少ない。昼間は学生たちの談笑やらで賑わっている表通りも、夜はくたびれたサラリーマンが時折、革靴のかかとを鳴らして歩く音が聞こえてくる程度であった。

(しくじった)

日本酒で唇を濡らしていると、ある事に気がついた。道理で誰からも連絡が無い訳だった。

(携帯電話が止まっている...)

いつも肌身離さず持ち歩いている携帯電話だが、こうなってしまっては時計くらいの機能しか持ち合わせていない。今やほとんどの人が持っているであろう携帯電話。現代の子は何歳くらいから手にするのだろうか?かつて僕らは頻繁に使う番号を暗記していたし、会いたい人を引き寄せる力も持っていた。今やそれらの能力は必要性を欠き、失せたと言ってもいいのかも知れない。現代社会の推進力である合理主義の波は、数々の人間の営みを変えたであろう。古来からの人間の能力や文化に新しいメスを入れ、"迷妄"という理屈を拵え、抹殺したであろう。その上で”発展”をしたのであろう。そして今も多大な変化を与え続けている。だが今夜は...。

(わるくない)

メールは言わばテレパシーで、通話は遠隔通信能力の代替だと言える。現代人は脳みそを30%くらいしか使う事が出来ていないらしい。即ち人はまだまだ未知で、科学では分からない神秘に満ちているという事が言えるのだ。では合理的な科学が産まれる以前はどうであったのか?例えば日本の縄文時代の文化に"夢告"というのがある。読んで字の如く"夢の中のお告げ"であるが、これは眠りの中で他者と遠隔通信を可能にする能力だと思われる。日本の神話にも数々の夢告が登場する。タケミカヅチが神武にフツノミタマという聖剣を送った事を知らせる際にも使われている。そんな"夢告"を円滑に行う為の装置として山頂ピラミッドが造られたらしい。素材には水晶を使用していた。ご存知の通り現代のラジオが電波を飛ばす為に使うのも水晶である。ラジオには微量の水晶が使用されるが、古代、例えば甲府にある昇仙峡では原石のまま山頂に水晶のピラミッドが造形されていたらしい。その規模で電波を飛ばすとなると果たして...?解明は現代科学に委ねたい。"夢告"とは言わば古代の科学であると言える。迷妄性と合理性が同居している科学なのだ。

(しかし...いかがなものか)

問題は携帯電話であった。現代は如何せん多忙である。それにマナーやモラルが必要以上につきまとう。携帯電話が繋がらない事は最早、無礼に当たるのではないか?現代は現代でこれまた難しい構造を秘めている。僕らの祖先が残した伝承や言い伝えの類いも、合理主義の前には"迷妄"のレッテルを貼られた当事者に他ならなかった。そもそもイデオロギーの話は好みではないが、要するに伝承を失った人々は、知識を無くして教育が出来なくなり、それ故に法に頼るという図式のようである。法よりも先に心があるべきだと思うのだが、それさえも"迷妄"だと言えるのだろうか?いやいや、それこそが人ではないのか?だとしたら人間とは...。

(寝てしまおう...)

銭を払えば遠くにいる人と会話が出来る。能力を銭で買うのだ。実行するかしないかは明日の己が決めてくれる。今夜は夢告を待つ事にしたい。以前に松本人志氏が「携帯電話が人体に埋め込まれる日が来る」と言っていたのを思い出したが、強ち無い話ではないのかも知れない。


関連する記事